そこに在ること
舞台のたれ幕が完成しました。
もうすぐ私の身体表現のふるさと、荒馬座の舞台公演があります。
仕事をしながら座の活動を支援する、準座員活動の25周年をお祝いする舞台。
25周年の節目に出会えた私自身の喜びと、
年々増える準座員の人数を魚に例え、「大漁」のお祝いとかけ、
万祝いの構図を引用し、祝い幕を描きました。
去年の大凧以来の大型作品制作になります。
実は私の中で今回の作品、これまでの過去の作品とは全く違う革命的存在。
時代はさかのぼり、大学院生の頃、
私は絵を描く行為に意味を持たせようと、
そのことで頭がいっぱいでした。
その答えが出た時に、
自分の今やっている行為の意味を、
自身で理解できるんじゃないか、
今思えばこのままやってて意味あるものか、と当時制作活動に不安を抱いていた自分を、
半ば説得させるための探求であったような気もします。
ラスコーの洞窟に絵を描こうと思った人と、
美術館や画廊に作品を展示しようという私とは、
文字でも記録でもない「絵」という表面的な共通点だけで、
根本的に何かが違うと感じていました。
何か忘れてしまってはいけないようなことを、
私は忘れているのかもしれない。
ラスコーの壁画を描いた人たちの気持ちがしりたい。
とにかく、自分の絵を画廊や美術館以外の、
鑑賞することを目的としない場所に
置いてみることからはじめてみました。
公園のシャッター、工事現場の防壁、
レストランの壁、大凧にと絵を描きました。
でもそれらは、今までの作品の延長線にすぎず、
ただ単純に絵が大きくなり、より多くの人に私が描く絵柄を鑑賞してもらいたい、という気持ちに変わりはなかった。
今回の革命的なことって、
「幕」と「芸能」と「人」が一つになった瞬間を見たときの、
お互いの相乗効果。その表現のバランスの気持ちよさ。
幕が時空をゆがめ、芸能によって人が熱くなっていく。
エネルギーの充満を感じられる時、その3つの要素が揃うのは、本当に瞬間。ツカノマ。
そのことが「特別な時間」になった。
それを見た時、感が動きました。
私が描いた絵が周りのモノ達と付着し、違うモノが生まれてくる。
そのおもしろさだったり、その無限性だったり。
それは「描かれた絵柄を鑑賞してもらうもの」という個としての存在が解体されて、
絵柄の意味内容のみにとどまらず、
「絵が何故そこにあるのか」という存在そのものの意味へと、平面の世界から立体の世界へと繋がっていく。
それは、過去に描いた作品とは、
まったく異色の存在だと思います。
私の描いたものが、どういう存在になって、まわりにどういう影響を与え与えられることができるか、
「何が目的で描いているのか」から「何のために存在するか」への探求心。
少し自分の中で、作品をつくるにおいての姿勢がすこしづつ変わってきたように思った、新作です。
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